因幡風土記(存疑)より
因幡の白兎・考(1)

因幡と気多、地名考へ
シャチについて
ORIG: 2000/09/20
rev1: 2000/09/26
rev2: 2000/09/27 兎の胆
rev3: 2000/10/08 アイヌ聖典追記
rev4: 2001/01/29 壱岐風土記「鯨伏郷」追記
rev5: 2001/02/08-15 Minor changes
rev6: 2005/09/12 イスクハシ追記

有名な因幡の素兎の話である。同様の話は古事記にも記載がある。キーワードを確認するために要点を復習しておこう。

因幡の国、高草の郷の話だ。老兎が洪水で「オキノシマ」に流された。「数を数える」ワニを欺いて「着物を剥がれる」「蒲」の花を撒いてその上に伏して転ぶ。それで治った。

さて、この話も縄文時代から縄文語(その後裔言語がアイヌ語か)で伝わったものらしい。そう思われるのは、この話をアイヌ語を介して考えてみると、筋書き以上に言葉の音や意味の転化に味わいが見て取れるからである。

: まず「兎」に就いて述べる。

次表は垂仁紀の「兎砥川上」で造られた剣、異名「裸伴」の解釈でも見た語彙群である。なお「造語」としたのは、辞書に出ている単語を、小生が小生の文法知識で組み立てた連語である、という意味である。

isepo 兎。また isopo という地方もある。iso-poで「獲物・小さい」ほどの意味になる。
isepo-un-nay 磯分内(北海道の地名:兎が・いる・川)
isepo-ruy-pet造語:兎・多き・河
____o-ruy-pene裸、抜き身
isepo-ruy-pene造語:兎・多き・川の上流:兎砥川上
atusa裸:(原形:ar-rus-sak:全く・衣・もっていない)
「裸」を意味する別語。この語は「兎の衣服を剥いだ」という因幡の白兎の説話に至近の原義からなっている。

「兎砥川上」で造られた「裸伴」の解釈をしているときに「裸」と「兎」が出てきたので「因幡の白兎」の話を思い出し、オヤッとは思っていたが現在の兎砥川周辺に「イナバ」とか「ケタ」とかという関連地名が見当たらない、など、根拠が無かったので棚に上げていた。

ワニ

この度、知里真志保著作集を入手し「分類アイヌ語辞典・動物編」を参照することが出来たので少し詳しく調べてみた。「ワニ」という南洋の動物は、この辞典には記録されていない。しかしながら、今、日本語の「シャチ(鯱)」が指す海洋動物に就いて、この辞典では「獲物を・陸に上げる・神」、「沖に・居る・神」など幾つかの呼び名が掲出されている。「獲物を・陸に上げる・神」と訳される iso(獲物)-yanke(陸に上げる)-kur(神) という語彙はホロベツで採集され、この「獲物」とは「鯨」のことである、としている。

実は、壱岐風土記(逸文)鯨伏(イサフシ)郷に「昔、ワニ(に)追われた鯨(イサ)が逃げてきて、この地で、隠れ伏したので、鯨伏郷という」とある。つまり近年のアイヌでも、8世紀の壱岐でも、鯨を浜へ追い上げる海洋動物が認識されている。アイヌではその動物を今の日本語のシャチに相当する動物を指し、壱岐では昔「ワニ」と呼んでいた、ということである。

即ち「ワニ」とは今いう「シャチ」のことであろうか、ということが言える。関連語彙を少しリストしておくと次表のようになる。

iso-yanke-kurシャチ(原義:獲物を・陸に上げる・神)
rep-un-kamuyシャチ(原義:沖・にいる・神)
koyka_isepoいるか(原義:波・上・兎)
isopo-humpe(原義:兎くじら)シロナガスクジラかシロイルカか
pisotki クジラ[沖ことば] sotki=寝床
sotki_kor寝床持ち=ワニザメ
humpe鯨(総称)[鳴る・もの?(海水を吹き上げるから?)]

さて、鯨を日本古語でイサというのと、アイヌ語の iso (獲物)の類似も気になるが、アイヌ語内部で「iso が 獲物」で、「iso-po (小さい獲物、ise-poとも言う)が 兎」を意味している、このことが、この白兎説話の理解に重要である。
[2005/09/12追記]神武記に「イスクハシ鯨」という語句がある。「イスクハシ」が「鯨」に掛かる枕詞の如くである。「石上(イソノカミ)」を「イスノカミ」とも言うことを考え合わせれば、「イスクハシ」は「イソクハシ」として、「幸・妙し」「鯨・妙し」あたりを意味している、と考えて良さそうである。

即ち、iso-yanke-kur(シャチ)「獲物を・陸に上げる・神(者)」が陸に上げる獲物が小さければ、「兎を・陸に上げる・神(者)」と通じるのだ。説話の筋書きがシャチの呼び名の中に包含されている。

そして、「シャチ」を指すアイヌ語は多数あるがその一つにrep-un-kamuyがあり、これは「沖に・いる・神」の意味である。この異名は「オキノシマ」に流された兎がワニ(即ちシャチ)に邂逅するという筋書きに必然性を与えるものである。このように、日本語に「翻訳」された話では見えてこないことが、アイヌ語で理解すると整然と説明が出来てくる。

「波上の兎(いるか)」にせよ「兎くじら」にせよ、どういう訳か、「兎」とこの種の海の動物が関連している。伊勢の語源をご覧になった方は「兎」が海上の三角波を意味するので海上では忌み言葉となっている、ということをご存知だろう。何故か「兎」と海洋とは関係が深いのである。

「数を数える」という動詞はpiskiと言い、解析するとpis-kiとなり、「pis・をする」という構成になっている。pisが「数える」の語根と思しき要素である。一方、pisには「浜」という意味がある。

この「浜」に関して述べる。古事記では因幡の白兎の舞台を「気多の岬」としている。これは現在の鳥取県鳥取市西端の地名に、白兎、白兎海岸、白兎神社があり、御丁寧にもその沖には淤岐ノ島、まであり、この近辺のことと考えられている。一方、その西隣は気高郡(旧・気多と高草の合併地名)であり、そこには「北浜」(<気多?)、浜村、などの地名がある。即ち、高草郡(因幡風土記が舞台とする処)の「気多」の「浜」候補地であろう。

下表に見る通り、数える、浜、痛痒い、に pis 音が含まれ、この説話をアイヌ語で読む時、語呂合わせが面白い効果を発揮するものと思われる。

ipiski,piski 数える
si-kina 蒲(原義:大きい(本当の)草=高草)
ipisisipいらくさ
pisisi 痛痒い思いをさせる
pis 浜(「数える」の語根に合う。気多比定地に「浜村」現存)
pista浜辺に
pis_no (〜する)たびに、いつも、毎回
soso,sospa むく、剥がす

更に「数える」の piski は「蒲」si-kina(高草、の意味にもなる)のs_-kiを含んでいるのも、もしこの話が縄文語で語られていたとすると、恐らくソノラスな効果が高かったのではないだろうか。アイヌ語の説話がソノラスである、という知里真志保の指摘はこちらを御参照下さい。知里真志保の言うところの「同語を反復し、対語で畳み、時には頭韻を利かせて、流れるような行文の上に汲みとるばかりの音調美をただよわせていることがある・・・語る者にも聞く者にも非常にソノラスな印象をもたらすのである。この音調的な美しさはアイヌ文学の特徴の一つであって文字の無かったため主として聴覚に訴えられることも原因の一つであろうと思う。」を「因幡の白兎」にも見ることが出来る。

さて、古事記ではこの兎を「裸兎」と「素兎」と二通りに書いている。本居宣長はその紀伝で「この兎が白いとはどこにも書いてない。ここで急に『素兎』というのも腑に落ちない。素とは裸のことであろうか。シロとは読まず他の読み方があるのだろうか。後の人良く考えてよ。」という趣旨を述べているそうだ(参照:岩波古典文学大系「古事記」p93頭注11)。

上の表に入れておいたように「剥く、剥がす」を意味する soso という語がある。「素兎」と書いて音読みすれば soto であろう。"to"と"so"が共に"tso"に溯るか、と考えられる程、この二音は近い。「素兎」とかいて「裸の兎」を意味してきた根元は、このアイヌ語彙 soso にあるのではなかろうか。

上記のように、このお話はアイヌ語で理解してみると、

  • ワニとは獲物(鯨)を浜まで追いかけてくる習性のあること
  • 「ワニ」を「シャチ」のことと解すると「兎を陸に上げる」というアイヌ語につながること
  • シャチが「沖」(の島)にいる神だということとも符合すること
  • isepo, piski,に代表されるように、p,s,k の音が豊富に含まれ音調が良いこと
  • また「素兎」と書く背景もアイヌ語 soso で解けること
などが判る。

以上により:
因幡の白兎の話は縄文語で語られたものを日本語訳して伝わった、それを古事記や風土記が記録した。であるから、縄文語の後裔言語(ではないかと研究しているのだが)であるアイヌ語でこれほど理解が進むのだ。

と結論する。


この種の「動物の知恵比べ」が「東南アジアなどにみられる」(世界神話辞典(角川書店)p339)そうで、そのことと、この話が縄文語で語られたとの推定を合わせると縄文文化の東南アジアとの接点(他地域との接点もあろうが)という展開にもなりそうである。
兎の知恵、アイヌ・バージョン:「アイヌの神話III」更科源蔵著みやま書房P160より
「海馬(とど)は・・・海神の妹が病気になったとき、兎をだまして海の上に連れ出し、その生胆をとろうとしたが、兎の機転で『病気に良く効く胆は、山の木の枝に乾かしてきた、今もっているのは何も効かない胆だ』といわれて、がっかりして『よく効く胆をとってきてくれ』と兎を陸に戻すと『馬鹿野郎!どこの世界に胆が二つも三つもあるものがあるか』といって兎が笑った」。
知里真志保の分類アイヌ語辞典・人間編の「はだか」の項に 「atusa yukpo《聖典,p162》 皮を丸剥ぎにした小鹿。atusa isepo 皮をむかれて赤裸になったウサギ」とあり、出典とされる金田一京助著「アイヌ聖典」世界文庫刊行会、というのを調べてみたいと思っている。同書ではないが、三省堂の金田一京助全集11所収の「アイヌ聖典」ではp142に atusa yukupo が出ていた。文脈としては、人間が鹿(これも神からの賜物)を粗末に扱う為、神が捕れないようにした、というものであった。金田一は、ここを「空剥ぎの鹿」と訳出している。
また「北方神話のシャチ」との符合もご参照ください。
アラスカ、トリンギット族の民話(英文)
上記の拙訳
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