播磨風土記より・その1
オホナムチとスクナヒコネ
その2・地名へ
その3・伊和大神へ
ORIG: 2000/09/11
rev1: 2000/09/19 志爾嵩追記


播磨風土記神前郡の条にオホナムヂとスクナヒコネの争いの話があります。かいつまんでおきますと
(下記に「はに」とあるのは原文では「即」のような字体の下に「土」。意味は「埴」すなわち「土」のこと。)

はに岡の里生野、大川内、湯川、粟鹿川内、波自加の村
土質は下の下(耕作に不適)。はに岡、というのは昔、大汝命(オホナムヂ)と小比古尼命(スクナヒコネ)が相争って言うには『「はに」を荷物として遠く担いで行くのと、をしないで遠くへ行くのとどっちが勝つか』。オホナムヂが糞を我慢することになり、スクナヒコネが「はに」の荷を担いで行くことになった。そうして数日(歩いて行った)経った。オホナムヂは「もう我慢出来ない」と糞をした。スクナヒコネは笑って「実に苦しい」と言って荷物を投げ出した。それで(ここを)はに岡という。また、小竹(笹)が糞を弾き上げて衣に付いたので、ハジカの里、という」

続いて:「生野と呼ぶのは、昔、ここにアラブル神があって、往来の人を半分殺した。それで『死野』と呼んでいたが応神天皇が、名前が悪いな、今後は「生野」と呼びなさい、ってんでそういうことになった。
まぁ他愛のない話になっていますが、大国主の一名である大巳貴(オホナムチ)と少名彦名が協同して国造りをした、という説話もあるので、ここに「相争」ったとあるけど、内容もユーモラスであり、国土の取り合い、というような背景を伝えたものでもなさそうです。

さて、上記の説話の中に出てくるモチーフとかキーワードがアイヌ語でなら相互に発音の近い語になっていることに興味が持たれます。即ち:
糞 と 遠い
糞をするtuyma-arpa(原義:遠くに・行く)
糞をするtuyma-a(原義:遠くに・座る)
糞 と 荷物
si(この語には「大きい」という意味もある)
荷物・背負うsike  si-keと分析してみると一応「糞・処」という意味合いにはなりそうだ
遠いtuyma (参考:「土」は toy)
生野<死野、志爾嵩 と 糞
志爾嵩:宍禾(しさは)郡御方里条に出る。岩波頭注17@P323では神前郡の「シニ野の山」としている。
si
生野昔は「死野」。これで「シノ」とか「シヌ」と読めば、それは si-nup と解ける。これならアイヌ語 si の意味は「糞」とか「大きい」であるから si-nupは「大野」であろうが「糞野」と言って笑うことも出来る。
志爾嵩(しに・だけ)sini は「休息」の意味。説話の筋書きにも近い。「死野」と「志爾嵩」は同じ「シニ」という地名だということか、そうだと登場人物二人が休息したという話の基になったとして「休み・野」「休み岳」ほどの意味になろうか。

この話の筋書きは日本語でも通じてはいるが、アイヌ語を介してみると、言葉の遊びや連想が豊富に顕れてきて、日本語ではこの味わいは無い。翻訳されると「糞をしないで遠くに行く」という単純な設定になるが、アイヌ語だと「遠くに行かずに遠くに行く」という意味が伴う、それでオモシロイのだ。投げ出した処が sini-nup 休み・野だとしても、今まで「糞」の話をしてきた頭でその語を聞くと「糞・野」と連想しないだろうか。翻訳文学がどうしても原語のニュアンスや裏を伝えきれない例ではないだろうか。

播磨風土記を読み進むと、上記のすぐ後に「大川内 ・・・・異俗人三十戸(?)人(?)あり」と書いてあり、これは景行紀にある、蝦夷を「播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五カ国に」移住させた、との記事と関連するものだろう。そこで、播磨に蝦夷語に基づく地名があるのは不思議ではない、それらは太古からの地名ではなく景行天皇時代以降の話だ、との考えも出てこよう。しかし、それでは、上記の大汝命と小名比古尼命の話は、どう考えるか。景行時代の蝦夷が持ってきた話なのか? 蝦夷の話に大汝命やスクナヒコネが登場するのか。もっと昔から播磨にあった昔話ではないのか。いずれにしても、大汝命やスクナヒコネが仮託された、という可能性はあろう。

つまり、この大汝命と小名比古尼命の話は縄文時代から受け継がれてきた民話なのではないだろうか、という指摘である。であるからして、縄文語の後裔言語と考えられるアイヌ語で理解が進むのである、と。


知里真志保著作集3:p18:『山中によく「チ・ルラ・トイ」、「運んだ土」という地名が見出される』とあるも、関連不明。
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