卑奴母離を考える
「鄙守」か

orig : 99/06/04


魏志倭人伝の対馬国、一支国、奴国と不彌国の副官として「卑奴母離」という人名?職名?が記録されています。これは和語の「鄙守」のことであろう、との説があります。それを、代案が無いからか、否定までは仕切れないものの、疑っておられる研究者もおられます。

私も疑っています。その理由ですが、今までに自分では見たことの無い論点なので、ここに書き留めておきたいと思います。

基本的な観点として下記を挙げておきます。
  • 魏志倭人伝の地名、人名、職名は邪馬台国時代の日本で行われていた言語である。奈良朝の言語は邪馬台国語の後裔である。[卑奴母離を鄙守と解釈するならこの前提がある筈]
  • 奈良朝の言語の特徴の一つに甲類・乙類と分類される音がある(例:「日」や「卑」は甲類の「ヒ」。「火」は乙類の「ヒ」)(定説)
  • この甲・乙の分別が古事記では「モ」に関しても行われている。即ち、甲類が「毛」、乙類が「母」と使い分けられている。(日本書紀や万葉集では区別されていない)(定説)
そして、
  • 第一と第二の点から敷延すれば、邪馬台国語でも甲・乙分別があった(仮定)
  • 第三の点に徴して、邪馬台国語でも「モ」に就いて甲・乙分別があった(仮定)
  • そして、その甲・乙分別を魏志倭人伝の記録者は正確に写した(仮定)
と多くの仮定を導入しましたが、上の基本事項の延長、と言えるでしょう。

さて、甲・乙を分別している古事記で「守」という概念をどう表記しているかを調べてみますと、
神武記伊由岐麻毛良比いゆきまもらひ行って見守る
垂仁記・応神記多遅麻毛理たちまもり人名。書紀では「田道間守」
景行記山代之玖玖麻毛理比売くくまもり人名。
出雲風土記母理郷 本字 文理もり神亀3年(726)に改字

上記を見ると古事記で「守」という概念は常に「まもる」という具合に「ま」が先行しているようです。この「ま」は「目」の意味で「まもる」とは「目でじっとみる」こととされています(岩波古典文学大系頭注p160の四)。

ただ、田遅麻毛理に関しては「たぢま・もり」と分けて良いでしょうから、「もり」が抽出できるのかもしれません。(或は、本当は「たぢま・まもり」だったのが縮約されたのかもしれませんが。)

用例が少ないし、人名の「毛理」が「守」の意味だったかは確定し兼ねるし、更に、「ま」が先行していることで本来の「もり」の音が変化したかも知れないという恐れもありますが、とりあえず「守」を意味する「もり」の「も」は「毛」で表記されているようで、それは甲類の「も」であった、としてみます。

そうだとすると、魏志倭人伝の記録者が「卑奴母離」と書いた「もり」は「守」の意味ではなかったのではないか、ということになります。


しかし、上表の最後に掲げた出雲風土記(意宇郡条)には「もり」という郷名が、昔は「文理」と書いていたが西暦726から「母理」と書くようになったという記録があります。

もし出雲でも「文理」から「母理」に改字をした時点で「モ」に甲類・乙類を使い分けていたとすると、古事記では「母」は乙類に使われているので、古事記の「(麻)毛理」とは違うことになってしまう。それじゃぁ、「母理」の意味は「守」の概念ではなかったのだろうか、と思うと出雲風土記は、この地名起源を「我静坐而・・・玉珍置賜而 詔 故云文理 神亀三年改字母理」とあり、真偽はともかく、「母理」とは「守」の意味であった、考えられていた、または、そう言われていたことは確かだ。

メモ

縄文語の後裔ではないかと考えているアイヌ語に more という語彙がある。意味は「静める」。用例に「静かな考え、穏やかな考え、私自身の村の上を静かにする者が私である」(萱野茂アイヌ語辞典)また、ユーカラにも、a-more moshir 我が静かにしていた国、があります。
アテルイと共に敗軍の将として京都で斬殺された「母礼」という人がいる。

これが意味しうることは
(1)出雲では「モ」の甲乙使い分けが元々なかった
(2)以前はあったかも知れないが、726年までには書紀同様に区別が無くなっていた?
(3)古事記で使い分けているというのは幻想?
(4)「母理」は「守」の意味ではない?

結局「守」を意味する「もり」の「も」が甲類なのか乙類なのか断定出来そうもないという残念な結果でした。しかし、それでもハッキリしたことはといえば:
  • 魏志倭人伝の倭人の名前、地名、職名(邪馬台国語の語彙)と奈良朝の日本語語彙に連続性があり、として且つ
  • 両語とも甲・乙を弁別していた(特に「モ」に関して)、として且つ
  • 「卑奴母離」は「鄙守」のことだ、
とするには無理がありそう、ということでした。逆に言えば、「卑奴母離」を「鄙守」と解釈するには、「モ」の甲・乙分別を否定する必要がある、ということになりましょうか。


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