「出雲の語源」へのリンク。別ファイルにしました。
最初に、出雲風土記から仁多郡の山、「遊記山」を取り上げます。(岩波本p229)ゆきやま、と振りがなの付いているこの山に関して頭注では、「馬木村の南境にある烏帽子山(1225m)。比婆山とも言う。東南麓を油木(ゆき)という。」とあります。
「東南麓の油木」とは、広島県比婆郡西城町の北部にある地域とされてます。なお、ここから、南東25km程のところに、広島県神石郡油木町、南西25km位のところに比婆郡口和町に湯木もあり、古くは、この辺りまでカバーしていた広域地名かも知れません。
いずれにせよ、「ゆき」と言う音が「遊記」「油木」「湯木」等で表されており、表記に使用された(宛てられた)漢字の「意味」で考えては誤りそうです。「ゆき」とは snow の意味だったのではないでしょうか。
そうすると、「遊記山」の別名が「烏帽子山」と言うので、アイヌ語(飽くまでも、縄文語の参照言語としてのアイヌ語)で、 snow のことを「ウパシ」と言うのが、烏帽子(エボシ)と非常に近い音であることに気がつきます。
即ち、この山の名前は「ウパシ山」であった、それを誰かが(降臨系民族でしょう)が「ゆき」と翻訳して、各種の当て字をした、のではなかったでしょうか。
北海道に似た例があります。即ち、「大雪山系」の一つに「烏帽子岳」があります。つまり、「ウパシ」を「烏帽子」に宛てた、との傍証だと思います。
ORIG: 96/10/21
烏帽子山/岳の烏帽子を「雪」と考えるに関して補足して置きます。
さて、烏帽子山・丘など烏帽子の付いた山岳名は、実は、奄美大島にさえ、三箇所もあり、標高はそれぞれ、322M 358M 363Mで、果たして雪が降った実績があるのか、つまり、本当に「雪」の意味で付けたのか、不安が残ってます。つまり、上記のように、山の形が烏帽子に似ているので烏帽子と命名したに過ぎない、のかも知れないからです。
先に挙げた出雲の遊記山=烏帽子山=比婆山に就いても、実は、すぐ南に「立烏帽子山」があり、こちらは「立烏帽子」のような形をしているのかも知れません。
しかし、もう少し地図を睨んで行くと、同じ九州の中に、
宮崎県西都市と西米良村の境に烏帽子山があり、ここから4kmほど離れた所に「雪降山」があります。
薩摩半島の頴娃(えい)町には「雪丸」と言う地名があり(山岳は確認出来てませんが)、そこから6km離れた所に烏帽子山があります。
と言うわけで、既述の北海道大雪山烏帽子岳以外にも上記の様な、烏帽子?=?雪、を窺わせる材料があります。それで、烏帽子山・丘の全てが雪山の意味とは言わないまでも、幾つかには、明らかに雪を意識した烏帽子山・丘命名があったように思われます。
REV1: 97/07/16
烏帽子山と呼ばれる理由は、その山の形が烏帽子に似てるからさ、とも思い、三省堂の古語辞典の図版(7)を見てみますと、立烏帽子と侍烏帽子の絵がありましたが、相互には似ても似つかぬ形で、烏帽子山と命名したとしたら、どんな形を(或いは、どちらの形を)意識したのか、実地検証が必要だと思いました。
風土記に戻って、仁多郡の最後のところに「恵宗郡の堺なる比市山に通るには・」と言う一文があります。頭注には「王貫峠(比市山か)を越え、広島県比婆郡高野町和南原に出る路であろう」とあります。つまり、今の比婆郡は、昔、恵宗郡と呼ばれていたようです。「恵宗」郡には「ヱソ」と振ってあります。蝦夷???
戀山(したひ山)には、古老が伝えるこんな説話が風土記にあります。「和爾(わに)、阿伊の村に坐す神、玉日女命を戀ひて上り至りき。・・・」 この場所に就いて岩波は頭注で、「仁多町と八川村の境の舌震山」としてます。昔の「したひ」が、今や、「したふれ」に変化してきて居るんですね。そして、同頭注曰く「山の西側の馬木川が崖をなして、鬼舌振(おにの、したぶり)と呼ばれる。」つまり、「和爾」が「鬼」になっている。。。
o-ni-us taor なら「そこに木が群れている 川岸」なんてことになるのですが。また、「山、岡」のことを hur とも言いますので、その線もあるかも知れないが、ta の部分が説明しにくい。
調子に乗って・・・、鬼の舌震、の1km北に「美女原」があります。東京にも「美女木」なんて地名があって、各地に散見されるのですが、「縄文語」では(^_^)、美女の部分は pi-so で、小石滝、pis-oなら、浜(川岸?)のある、と訳出できます。美女伝説でもあれば、負け、でしょうか。どんなもんでしょう? (尚、アイヌ語では、s も sh も区別されませんから、pisoは、ピソ、ピショ、が可能です。)
「美女」地名は、湿地、沢などに多いそうです。
pis が「浜、州」などの意味ですから、塩水か淡水かにこだわらなければ、湿った土地に理解できます。pis-o、「州が、そこここにある」の可能性もありそうです。
或いは、pit=小石(萱野茂著アイヌ語辞典)から攻めてみる手もあるかな、と思ってます。pit-o-nay 小石のある沢、から来ているのかも知れませんね。北海道石狩川下流当別の付近に、美登江(びとえ)とか美登位(みとい)言う地名があり、これは、pit-o-i、小石・多い・所、と解釈されています。(山田秀三、北海道の地名p39)
いろんな意味で気を付けねばならないのは、こんな解釈をしてみても地形に合ってないとダメだ、と言う「ご注意」、です。そのご注意は、ある程度は有効ではありしょうが、地名を命名した時以来現在まで地形が変化してないという保証も出来ないことでありましょうから、一概に、(現在の)地形に合ってないじゃないか、と言って×印を付けてしまう訳にも行かぬのです。
>>越中立山にも「美女平」という地名がありますが、史料的には近世中後期まで>>しか遡れないようです。
というお知らせも頂きました。「史料的には近世中後期までしか遡れない」と言う点も、それだけでは、「それ以前は別の名前だった」証拠としては不十分です。
阿伊川と阿位川
上に出てきた「阿伊(あい)川」と共に、風土記には「阿位(あゐ)川」(現・馬木川)も記載があります。北海道の「愛別」を思い出します。 ay が「矢」の意味ですので、仁多町役場のすぐ北になる「矢谷」と言う地名との関連が注目されます。
辛谷
「大原郡の堺なる辛谷(からたに)・・・」ですが、今の八頭峠のある道の近くのようです。大原郡に入った途端に「樋ノ谷」がありますが、 kar には「火を起こす」の意味があり、 「辛谷」と「樋ノ谷」を関連づけようとすると、アイヌ語の援用が有効です。参考、カガナベテの軽井沢、など
灰火山 山のリストの中に「灰火(はひひ)山」があります。昔、火山だったのでしょうか。アイヌの重要な神である「火の神」の本名が「灰が輝き、火が輝き、やってくる神」と言う意味で、「灰と火」のモチーフがあります。 いわゆる「日本の」説話には、見当たらないモチーフだと思いますが、如何でしょう。実は、辛うじて一例あるかも知れないのですが、それに就いては天疎向津姫参照。
ここからの灰が飛び散ったのでしょうか、南にあたる比婆郡西城町に「灰庭」と言う地名があります。灰、は アイヌ語では una ですので、仁多郡横田町の「大畝(おうね)」、仁多町の「米(よね)原」、岡山県阿哲郡神郷町の「油野」(ゆの)あたりも縄文語(^_^)起源かも知れません。
「灰」とアイヌ語 una との関連をもう少し調べたので別ファイルに上げます。
仁多郡に居る内に触れて置かねばならないのが「鳥上山」でしょう。今、「船通山」と称していますが、全く関連の無い改称或いは別称があったのでしょうか。それぞれ「山」以外の部分を、アイヌ語に直してみると、 「鳥上」が、chir-kasi、「船・通る」が、 chip-kus となり、chir と chip、kasi と kus は通じてしまったのでは、ないでしょうか。 (「鳥船」=chir chip →秩父、も興味のある作業仮説です。)
最後に、仁多郡の「仁多」ですが、和語でも湿地の意味がありますが、アイヌ語でも同様で、両言語間での借用関係(同祖関係とまでは言いませんが)を窺う単語の一つです。
ORIG: 96/10/17
REV1: 97/07/16
続いて「意宇郡」条からの地名を拾ってみます。
先ず、この郡の名前の「意宇」(おう)ですが、奈良時代の日本語では二重母音が嫌われていて、こういう語は無い筈です。それを意識してか、郡名の由来が、くたびれて「おゑ」と言った、事に求められています。ここでも、どうやら、風土記を記録した人達の言語と、この地を「おう」と呼んだ人達の言語とは、いささか、性格が異なるようです。これ以外にも二重母音の入った地名が見られます。(島根郡許意(こお)、久宇(くう)。秋鹿郡名の秋鹿(あいか)など。)
佐比賣山
「出雲の語源」の佐比賣山の項で軽く触れてあります。
大穴持命が「・・・我が静まります国と・・・守らむ」と言ったことから「モリ」と名づけたとの地名説話があります。ユーカラにも more =静める、の用例として、a-more moshir 我が静かにしていた国、というのがあります。(金田一京助、アイヌ叙事詩ユーカラ集Vp214、雲後姫4506行目)魏志倭人伝の「ヒナ・モリ」も、いつか、この線から攻めてみたいと思ってます。(卑奴母離を考える、を挙げました 99/06/04)
国引き説話の中に鳥取の大山(だいせん)の事を「火神岳」(異本に「大神岳」もある由)と記しています(岩波p103)。まぁ、火山だったからそう名付けたのでもありましょう。火の神様、と言うと紀記では、「カグツチ」ですが、比較的マイナーであると共にイザナミの死因にもなる「悪さ」の要素があります。アイヌでは、apehuchi kamuy 火姥神、は最高神(の一つ)です。先住民族が大山を火神と崇めていたというイメージが良さそうに思えます。
同じ説話の中で、地形を示す「折絶(おりたえ)」という語がありますが、岩波本では補注があります。簡単に言うと語源不明、とされてます。縄文語!で試訳してみますと、ori-ta-p(e) 丘(を)断つもの、で、左右(東西)の丘・岬が海水が湾入して断たれている、という現地地形に良く合います。岩波頭注も「湾入した海岸の最奥部」としているので、語源は不明としているものの、意味は合っています。
布部川
布部川、と言う川が今の能義郡広瀬町あります。この川自体は風土記には出てませんが、「布辨の社(やしろ)」と言う神社が風土記にリストされてますので、地名としての古さは合格、としましょう。北海道にある「プーベツ」(倉・川)と同じ意味合いではなかろうか、と思ってます。
木呂畑
この川の支流域に「木呂畑」があります。地名としての古さは不明です。でも、日本語では、私には意味が取れない。アイヌ語で考えてみると、 kiror=力、kiro-ru =踏み固めた道、が候補として挙げられます。
山田秀三の「北海道の地名」では、kiro-roを山道、としてます。確かに、ここから、山に向かった道があります。
茅原
木呂畑のそばに「茅原」があり、その6km西南に「猿隠山」があります。両方とも地名の年齢?は不明です。 猿が隠れた説話も聞いた事がないので、アイヌ語で解いてみます。sar=葦原、湿原、やぶ等、 ka=の上、kus=通る、つまり、葦原の上を通行する、と翻訳出来ます。
六呂坂
この山の、やや北東は能義郡伯太町です。ここの寺谷峠から北に下ると「六呂坂」があります。土師の「轆轤・ろくろ」に関する地名かとも思いましたが、アイヌ語のムントゥム・ル muntum-ru 草の中(の)道、も魅力のある解です。と言うのは、これに隣接して、草野谷、草野下、と言う地名があるからです。
宇流布(うるふ)の社(神社)が風土記に記載されてます。(参照:出雲神社リストの No.29 にあります。)不思議な語で意味不明だと思います。松江市大庭町平原にウルフ山が現存するそうですが、手持ち地図では見つかりませんでした。さて、語義を色々、こねくり回してみましたが、今、出せる候補は、ウルップ島、のウルップ位です。意味は「紅鱒」だそうです。(山田秀三)なお、出雲風土記によれば、出雲郡斐伊川と神門郡神門川では「鮭」「マス」が取れた、とあります。
なお、類音の地名として、風土記なら出雲郡の「宇禮保浦」があり、その場所は、現在、島根半島西端の簸川郡大社町に宇竜であろうと考えられています。とすると、
同町に「鵜峠」があり、アイヌ語で「鵜」のことを urir ということを考えあわせると、この地名は「鵜」を意味する先住民語だったのだろうか。もちろん、北海道の雨竜郡という地名も意識して。。。
玉造山
山のリストに玉造温泉にある「玉作(たまつくり)山」があり、今は「宝山」と呼ばれているようです。まぁ、「玉」は「宝」也、で和語でも良いのかも知れませんが、一応、tama-kar で玉を作る、になることを指摘して置きます。時間的に逆のようにも見えますが、宝山が元の名前で、別称として続いていた、なんて事が判ると良いのですが。
一人女神社
風土記地名ではありませんが、玉湯町に「一人女神社」というのがあり、広瀬町と安来市の境に「独松山」というのがあり、「松」が、mat=女、に通じている(北海道の黒松内は「和人の女(が居る)川」と解釈されている/山田秀三)ので、ペアにしてメモしています。
島根半島の東端、美保関から出雲風土記に案内して貰いましょう。
●美保:
出雲風土記には、嶋根郡美保郷、そして、美保神社が出て来ます。
ここには、御穂須須美命(みほ・すすみ・の・みこと)が坐す、となっています。このミコトは、大国主命と奴奈宜波比賣命(ヌナカハひめ)の間にもうけられた子供です。ぬなかわひめ、は「高志」(こし、越)の国神の孫に相当します。「高志に坐す神 オキツクシヰ命の子 ヘツクシヰ命の子(が)ヌナカハひめ」です。
一方、日本書紀では、大国主が国譲りをした結果として、侵攻側の高皇産霊(たかみむすび)が自分の娘である三穂津姫(みほつひめ)を大物主に娶せます。勝った方が負けた方に娘を呉れてやる、ってのがどうも釈然としないところもありますが、それはさておき、風土記の話と書紀の話を「ミホ」の共通点から並べてみたものの、他の点では合致していないようです。
両者の話を無理矢理に整合させようとすると、大国主が国を譲った相手は「高志」の国だったのか、高皇産霊とは高志の神様だったのか、ってな事にもなりそうで、タイヘン?なことになります。(^_^)
「御穂」は「稲穂」の意味であると言うのが、恐らく通説でしょうが、アイヌ語で mippo =孫 (po=子、 mit-mippo=曾孫)が気になる符合です。
1995年に、美保神社を訪れた時に貰った略記によると、祭神は、三穂津姫と事代主になってました。(なお、末社も多数あり。)京都府亀岡市にある出雲大神宮では、大国主と三穂津姫でした。
風土記で「質留比」と記されているこの海岸地名は「十六島(ウップルイ)」と共に興味ある地名です。「十六島」もご参照下さい。
また、「玉結」、「方結」、「手結」などの海岸地名に共通な語尾「結」は、岩波の風土記では、たまえ、かたえ、たえ、のように「え」と読ませています。しかし、これらは、「宇由比」、「澹由比」、などの「ユヒ」と同じではないか、と思われます。
そして、「結」「由比」は、更に、「質留比」の「るひ」と同類・同語なのではないか、と思っています。「由比」などと書かれる海岸地名との関連を調べたいと思っています。(静岡県の由比など。)
こう申す背景には、アイヌ語の「海」を表す rur との関連が視野にあります。この語が、 r音を語頭に持たない和語に持ち込まれるに当たって、 yuy 、これの最後のyが二重母音っぽくなるので、それも嫌われ、yupi>yuhi となるのは、理屈が合いそうです。
つまり、xx-rur と言う地名が、時代や場所により、ruhi, yuhi, ye と言う風に取り入れられたように思われます。
美保関町の海岸にある、この地名が教えてくれる事は、なかなか重大な事ではないかと思います。それは、後に「津」と書かれて「つ」と発音されるようになった名詞、地名接尾語は、古くは「と」であったらしい、と言う事です。
勿論、風土記に「つ」の音は多数出て来ますが、こと、この場所に就いては、風土記時代には「くもと」と呼ばれ、何時の頃からか現在まで「くもつ」になっているのです。即ち、「くもと」が古い音を残しているように窺えるのです。
そうして見ると、少なくとも今の日本語の「タ行」には、t-, ch-, ts-の3個の語頭子音があります(ta te to, chi, tsu)が、ts-音が日本語に古くから(有史以前)あった音なのか、奈良時代少し前あたり(?)に生じた(tu→tsu?)ものなのか、などと言う興味ある命題につながりそうです。
アイヌ語では、tiは無く、chiがある点、日本語と同じですが、tuがありtsuがありません。それで、先住民語の tu が和語に取り入れられるに従い、最初は乙類の「ト」である「等」で表記され、次第に tsu に変化したのかな、とも思っています。倭トトビモモソ姫の名義考察にもこの考え方を使って居ます。
●佐波:
佐太大神の生まれた加賀神埼のある半島の付け根に「佐波」という地名があります。この地名は風土記には出てこないのですが、景行紀に周防の佐波が出てきますので、言葉としては古い言葉だと思います。その意味は、sa-pa 前・頭、で、岬、の意味になるのがアイヌ語です。
嶋根郡
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「十六島」もご参照下さい。
広島県の中国山地の地名も地理的なつながりから興味溢れるものがあります。
「出雲の語源」を別ファイルにしました。97/09/11