布忍(ヌノセ)神社に就いて・2

orig: 99/05/11


この神社の名称「布忍」に就いてもう少し考えてみました。多少、相互には矛盾するものがありますが、考えられることとしての列記としてご覧ください。

布=野、と考えると:

前述のように布=ぬ/の=野、と考えると大山祇神の次の系譜が思い起こされます。

日本書紀(三貴子の誕生の段)では、国うみを終わって、海、川、山が生まれる。次に木の祖先であるククノチを生み、次に草の祖先である「草野姫(かやのひめ)」、別名「野槌」が生まれた。

この部分は古事記では・・・ククノチが生まれ、山の神、名は大山津見神が生まれ、次に、野の神、名は鹿屋野比売、亦名を、野椎神と言う、となってます。

さて、古事記を読み進みますと、大山津見と野椎が、山野に因って持ち別けて(意味とり難いが)、生んだのが「天之狭土神、次に、国之狭土神」次に「天之狭霧神と国之狭霧神」

お気づきでしょう、「山」の神と「野」の神から、「天狭・・」と「国狭・・」が誕生してくる。先に見た時は「八嶋、国、布」のセットが観察されたに対してここでは、「野、天、国」がセットとして抽出できます。

つまり、「布」を「野」と考えても良さそうで、また、「狭」が山野や国土に関連しそうな背景として挙げて置きました。しかし「狭」は本当に「せまい」の意味なんでしょうか。こんなに頻りに「狭い国、狭い国」というのは何なんでしょう。頻りに、と言うのは、国引き神話での「狭布の稚国」、ここに挙げた数例、神武天皇31年紀の国見の時の言葉「内木綿のマサキ国」。狭いってことが美称なんでしょうか。。。

ここで、天之狭霧神、というのが出雲系譜にも出てくることが思い出されます。即ち、「14.天日腹大科度美神 =遠津待根神 ←天狭霧神(←大山津見神)」。古事記では「風の神、名は志那都比古神」が大山津見神より先に生まれてますが、出雲系譜のここ#14の「科度」は「シナド」で風に関係ある名前と考えるのでしょうか。


霧=山?

狭霧・考にも書いてありますが、アイヌ語のビホロ方言では山のことをキリ(kir)と(も?)言うそうです。(「山犬切」 という変わった山名[熊 本・八代・泉/球磨・水上境]もあります。)「「狭霧」の意味が、サ山(「サ」の意味は置いておいて)、とすると、「狭土」の方もサ土、サ国土、とか、山に対するのなら、サ平地、位の意味合いが想像されます。

「サ」に関しては、しっくりしたアイヌ語解(縄文語解?)が出せないのですが、「サ」には次のような意味があります。

sa さ
    (1)(山に対して)浜 
    (2)(奥に対して)前 
    (3)(屋内では壁際に対して)炉端

ここの候補から無理矢理絞り出せば、狭霧=サ・キリ=前・山、でしょうか、そう解くと、狭土は「前の国土?」ってことになりますが、「狭い国土」と自慢(?)或は国褒めするのが解せないので、他の解を求めたくなります。


布都神との関係

布忍、ヌノシ→ヌノセが今の読みですが、素直に読めば(原形に近い?)ヌノオシ、しかし古代には二重母音が嫌われたようであり、そうすれば、ヌノシ、が結構原形に近いのかもしれません。

さて、上述しましたが、布忍神社の祭神3柱の一つは「武甕槌雄之尊」です。古事記には「建御雷之男神」(たけみかづちのを)別名として「豊布都(とよふつ)神」と「建布都(たけふつ)神」が記録されています。別名の核である「フツ」は、日本書紀では「経津主(フツヌシ)神」に現れ、そこでは、武甕槌神とは別人格(神格)になっていますが、共同して出雲解放(???)したことになってます。(出雲の国譲り)

「布忍」と「フツヌシ」はつながらないのでしょうか。

「布忍」は「布ノ・おし」、実は「ふノ・おし」
「経津主(フツヌシ)」の「ツ」は所属形を示す「之」の意味の「ツ」とすれば、フツヌシ=フノオシ

こう考えれば「武甕槌雄之尊」を祭りながら「フノオシ」神社(二重母音を嫌えば、フノシ、か)でも辻褄が合ってきます。


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