<font color=brown><b>布忍</b></font>神社・2003版

布忍(ヌノセ)神社に就いて・2003版

orig: 2003/10/16
「布」が「国」を意味することを『古事記』の用例を参照して推定した。また、琉球語を参照して「忍」が「照る」を意味することを考察した。「オシテル難波」の背景も解けたつもりである。
きっかけが何であったか、どうしても思い出せないのですが、大阪府松原市にある布忍神社のHPに辿り着いたら「布忍」(の意味)に就いての緊急レポートとして日本書紀に「布忍入姫」を発見した、とあり『「布忍」という事に関しての情報または、上記のことに意見等がありましたら神社まで一報下さい。』とありましたので、私も興味を持って調べてみました。

下記は2003年に全面的に書き換えたもので、拙著『初期天皇后妃の謎』からの抜粋、編集したものです。
1999年にアップしたものは旧バージョンに保存してあります。


「布忍」、その読み、語義は何であろうか。

最初に「布忍」の「忍」を検討する。「忍」の字を『記紀』・『万葉集』に例を求めると、「忍」の字は「オシ」か「シノ(ぶ)」の2通りに読まれる。

3.3.2 「忍」を「オシ」と読むと:

まず、「オシ」と読んでみる。「オシ」と読むことには魅力がある。それは、『古事記』に出ている出雲系譜において次のような事柄があるからである。すなわち

●第7代(スサノヲを0代と数えて)周辺に
 7.鳥鳴海神〓日名照額田毘道男伊許知迩神
 8.国忍富神〓葦那陀迦神(亦名、八河江比賣) とある(〓は婚姻関係を示す)

ここでは、「日名照」(ひなてる)が次代の「忍」(おし)に継承されている、と観測だけしておいて欲しい。後に「おし」が「照る」の意味である、と考証する。

●第12代(スサノヲを0代と数えて)周辺に

 12.美呂浪神〓青沼馬沼押比賣←敷山主神
 13.布忍富鳥鳴海神

(〓は婚姻関係を示し、←は配偶者の祖(親)を示す)

この中の「青沼馬沼比売」は「ア(ヲ)ヌマ・ヌ(ノ)オシ・ひめ」とも読むことができ、その子が

「布富鳥鳴海神」読みは「ヌ(ノ)オシ・とみ・とりなるみ」

であり、ここに母から子へ「オシ」が継承されている。(母系名称の継承については拙著に詳述した。)

3.3.3 「忍」を「シノ」と読むと:

しからば「忍」を「シノ」と読んでみるとどうなるだろうか。

「シノ」を考えるにあたって、『古事記』にある出雲系譜から「スサノヲ」と「クシナダヒメ」の間の子である「八島士奴美神」に注目する。この人について、『日本書紀』(第一の一書)は3つの異名が伝えており、『古事記』の表記ともあわせて下表に示す。なお「八島士奴美神」の読みも「やしま・シノミ」「やしま・シヌミ」のいずれかであろう。「やしま・シノビ」と読めば「忍」との整合性は一層高まる。(「ノ」と「ヌ」の区別は、かなり曖昧で通用していることがある。「奴」は「ノ」にも「ヌ」にも使われている。)

図表3 八島士奴美神と異名
『古事記』 八島士奴美神
『日本書紀』・第一例 清湯山主三名狭漏彦八嶋篠
『日本書紀』・第二例 清湯山主三名狭漏彦八嶋野
『日本書紀』・第三例 清繋名坂軽彦八嶋手命
『日本書紀』が伝えるこの人の名は上のように長いが、最後の「八嶋*」の部分が『古事記』の「八島士奴美」と対応しているであろう。この部分について考えてみる。

第一例の最後に「篠」(シノ)がある。明らかに『古事記』の「士奴(美)」と対応する。

3.3.4 忍の語義:

「忍」の読みを「オシ」か「シノ」かと考えてきたが、意味を棚上げにしていた。ここでは、その語義探索をする。

枕詞に「オシテル」と「シナテル」がある。『時代別国語大辞典上代編』(JKと略称)によると「オシテル」は「照り渡る。オシは接頭語」、「シナテル」は「語義未詳」とある。

「オシテル」は万葉集では、「なには(難波)」に掛かることも多いが、#0619に「押照其日之極」(おし照る、その日の極み)があり、#1480に「押而照有此月者」(おして、照らせる、この月は)があることを考えれば、少なくとも日月(の輝き、照り)にも関わる言葉であり、接頭語ではなく独立性のある語彙であろう。

JKの「押す」の項目では第2の語義として「上から光などを一面に及ぼす」としている。端的に言えば「照らす」ということであろうが、この語釈は、「押」「圧」など「おす」の漢字表記に影響されているような気がする。古語の「おす」には「照らす」という語義があった、と直截に言えないものなのであろうか。

そこで、和語の古語の色々な側面が保存されている可能性のある琉球語を調べてみる。

琉球の古謡集『おもろさうし』(『オモロ』を略称することがある、コラム参照)の91番には次の一節がある。

 てるかはわ 照り居り
 てるしのは 押し居り
 君々しよ よ知れ。

外間守善校注『おもろさうし』(岩波文庫 黄142-1)では「てるかは」も「てるしの」も「太陽(太陽神)」の意味である、と脚注している。岩波思想大系の『おもろさうし』の補注によれば第233首には「てるしの」の原注に「御月之事」とあるそうで、しからば「しの」とは、日月双方を意味しうる語である。(村山七郎著『アイヌ語の研究』(三一書房)P82では「しののめ」の「しの」がこれであろうと論じている。)

すなわち「押し(居る)」は「照り(居る)」と並列して、琉球語においても「接頭語」に留まらず、日月が照り輝く、という意味の独立した語彙であることが明確であろう。

また、『おもろそうし』1041番には「てるしなの・まみや(照り輝く太陽の真庭)」という句があり、「シノ」には「シナ」という形もあったことがわかる。(外間守善著『沖縄の言葉と歴史』中公新書(p210)には、一例だけだが「シノフ」という形があるとしており、これが「シノ、シナ」などの古形であったとすれば「忍」字を宛てるのは、さらに適切だったようだ。)

すなわち、「オシ」は日月が照り輝くことに意味であり、「シノ・シナ」は日月を意味する。つまり、「忍」を「オシ」と読もうが「シノ」と読もうが、いずれにしても日月を指している、と言える。古人は「オシ」とも「シノ」とも読めるように「忍」の字を使ったのではなかろうか、と思わせるほど巧みな用字である。


応用

上のように理解が進んだので、「オシテル」が「なには難波」に掛かることについて小考しておこう。上記『国語大辞典』では「掛かり方不詳」とされている。

まず「難波」とは何であろう。従来、「難波」は神武紀では「なみはや浪速」が語源とされており、なるほど瀬戸内海と(旧)河内湖をつなぐ狭い水路が潮の満干に応じて強い水流をもたらす、という説明には一定の説得力があった。しかし、この旧来の説明では「オシテル」が何故「浪速」の枕詞になるのか分からなかった。

「おしてる・なには」は、上にあげたように「てるしなの・まみや(真庭)」と同工異曲で「照り輝く真庭」に起源が求められまいか。「真庭」の意味は「神祭りの場所の美称」とされるが、その音は、『オモロ』では「まみや」、今の標準語に合わせれば「まにわ」、その間に「なには」が都合良く収まりそうだが、どうだろう。なお「庭」の古語は「には」である。つまり「オシテルなには」とは「オシテル真庭」であり、「照り輝く真庭」であろう。

もうひとつ、枕詞の「しな・てる」(意味は、日月が照る)と「天夷鳥(ひなとり)」、「日名照(ひなてる)額田毘道男神」(出雲系譜参照)とのつながりも認められそうである。

さらに、『古事記』が伝える「大国主」と「胸形奥津宮の多紀理毘賣」の間に生まれた「アヂスキタカヒコ」と「妹高比賣、亦名、下光(したてる)比賣」について「下光(したてる)」がここで議論した「シナテル」が「シタテル」に変化したものではないか、と思われる。また、彼女のもう一つの名が「高ヒメ」であり、太陽が高く照り輝くことから同一のモチーフによる異名と解することができそうだ。(『先代旧事本紀』にはアヂスキの弟である事代主の妹を「高照光姫」としており、『古事記』の「高比賣」とは「高照光姫」のことで事代主の妹と解するのがよいかもしれない。)

「オシ」も「シノ」も日月の輝きを意味とするとすると、古代史に登場する人物名に「忍」字を見るとき、その字を宛てた人は対象人物に「日月」を連想していたかもしれない可能性がある、と意識してみるのも好いと思っている。「忍」の二通りの読みのうち「オシ」だけを表現したものが「押」字ということになる。「忍」「押」の入った名前の例を挙げておく。ニニギの父である天忍穂耳尊。第6代孝安天皇大倭帯日子国押人(帯日子国忍人とも書く)、その兄、天押帯日子命、孝安天皇の姪、忍鹿比賣命。ニギハヤヒの曾孫にあたる天忍男命、天忍日女命、天忍人命。大伴の祖先である天忍日。ヤマトタケルの娘、布忍入姫。

琉球語について

服部四郎によれば琉球諸方言語と内地諸方言の分離は今を去ること約1700-1800年前と推定されている(『日本語の系統』岩波書店p228)。これは弥生時代の最後あたりに相当する。ということは、日本語が保存して居るであろう弥生語の特性の一部とは異なった部分を琉球諸方言が保存している可能性がある、ということだ。換言すれば琉球語は弥生時代の日本列島で行われていた言語(複数あるならそのひとつ)の性格を知るために大事な言語史料である。弥生語が何らかの形で縄文語の影響を受けている可能性もある。それを分別する作業は困難を極めようが、琉球語(と日本語古語)から弥生語を研究して行けばそこから、縄文語研究につながる事も幾ばくかある出てくるであろう。

3.3.5 「布」は国土の意味か:

「布忍」の「忍」字の検討を終え、ここでは「布」字を考えてみる。

上述のように「シノ」が含まれる神名として「八嶋篠(八嶋士奴美)」「国忍」「布忍」が挙げられる(これら三神は何れもスサノヲ〜大国主系譜に現れる)。これらから共通部分「シノ」を外してみると、「八嶋」「国」「布」が得られる。このうち「八嶋」と「国」が小異を捨てて考えれば大同として良かろう。であれば「布」もこれに連なるものではなかろうか。これら三語を「国土」の意味として共通していると考えるのが整合性が良さそうだ。

すなわち「八嶋士奴(美)」は「八嶋の日月」「八嶋を照らす」あたりの意味の広がりを持ち、「国忍」と「布忍」も同様に「国の日月」「国を照らす」という意味合いではなかろうか。

『沖縄の言葉と歴史』によれば「テタコ」と「セノミ」がともに日神の意味であり、「セノミ」が「シノミ」通ずる蓋然性が考えられる、としている。上の結論と整合していることが注目されよう。

「布忍神社」は今「ヌノセ神社」と読むが、素直に読めば「ヌノオシ」で、「国を照らす、国の日月」の意味であろう。しかし、古代には二重母音が嫌われたので実際の発音は「ヌノシ」であったろう。また、「ヌ(ノ)シノ」が原形に近いのかもしれない。意味は「ヌノオシ」と同等で「国・照」である。

3.3.6 布都神との関係

さて、上述のような結論をみたが、代案もある。

布忍神社の祭神3柱の一つは「武甕槌雄之尊」だ。『古事記』には「建御雷之男神」(たけみかづちのを)の別名として「豊布都(とよふつ)神」と「建布都(たけふつ)神」が記載されている。この名の中心部分である「フツ」は、日本書紀では「経津主(ふつぬし)神」に現れ、そこでは、武甕槌神とは別人格(神格)になっている。タケミカヅチとフツヌシが共同して出雲の国譲りを迫ったことになっている。「布忍」と「フツヌシ」はつながらないのだろうか。

「布忍」の「布」を「フ」と音で読み、「忍」は訓読みで「オシ」を採ると「フ(ノ)・オシ」となる。「経津主(フツヌシ)」の「ツ」を所属形を示す「之」の意味の「ツ」と考えれば、「フツヌシ」は「フノヌシ」と同義となる。一方で、布忍=フノオシは二重母音を解消させると「フノシ」となろう。

こう考えれば「フノ(オ)シ」神社の名前は「武甕槌雄之尊」の別名から取ったのだ、という見方もありえそうだ。

国土を意味すると推定される「布」を「フ」と音読することには魅力がある。それはイザナギが黄泉の国から逃げ帰るところと、出雲が国譲りをした後に提供する従者として登場する「岐神」に関してだ。『日本書紀』本文では「岐神」に対して「フナトノカミ」と読めという原注を与える一方で「もとの名は、来名戸之祖神と言う」とある。すなわち「フナト」のもとは「クナト」である、と書いてある。この「ク」「フ」通用例はハ行音の「全て」がP音から変化してきた(定説)のではなく、発音記号[kh]とか[x]で表されるような音があって、そこから[k]と[h]に別れたもの「も」ある、という例として注目してきた。(前著『縄文伝承』p38-)

この「ク」「フ」交代は、この章で見てきたように訓読みしたときの「国」と、音読したときの「布」の対立と良く整合している。「クナト」「フナト」語義としては、従来、岐路に関わる神、とされてきていて、大意としてはそうであろうが、原点は「国の戸」「布の戸」(語義はいずれも「国の玄関」)であったのではなかろうか。

3.3.7 結論:

本項では布忍神社名の考察を利用して、「布・国・八嶋」が何れも国土を表す語であろう、と推定した。「忍」字に関しては「オシ」とも「シノ」とも読め、いずれの場合でも日月が照ることに関係していると推定できた。

また、今「ヌノセ」と読まれている「布忍」には上記のように幾つかの読みが、それぞれ合理的な背景を伴って、考えられそうだ、と提示した。

ここで、注意しておきたいのは、私の研究の現段階でのスタンスは、可能性のある読みのうち「どれが正しいか」という判断は、出来ればするが、無理には判断しないということだ。異なる複数の理解が発生して、それが異なる伝承経路で残されたものが今観察できる事象なのだ。複数ある伝承が一見異なったものでも、実は同根である、ということが分かれば次への大きな一歩になるであろう。

コラム 3 おもろさうし

琉球の古謡を1554首、集めたものの名前であり、おもろそうし、と読み、しばしば単に「オモロ」と呼ばれる。伊波普猷は、これを「琉球の、万葉集+祝詞+古事記に該当する」と表現した。概説するだけで十分一冊の本になるようで、ここでは、外間守善著『おもろさうし』(岩波書店)と『おもろさうし・下』(岩波文庫黄)の巻末概説を参照して最小限の事を記しておく。

外間によるとオモロの語源は「ウムイ」(思ひ)にあり、「思ひ」は現代の意味とは異なり、内的思考を外部に対して「宣る」「唱える」という意味だ、と説き、古い時代の5母音では「オモイ」であったものが3母音への変化し「ウムイ」となり、動詞活用がラ行四段的活用に変化して「ウムル」となったと考え、そして「ウムル」が大和風の5母音体系に戻されてオモロとなった、と考えている。

オモロの制作年代の判るものとしては、13世紀の「ゑぞのいくさもい(英祖の戦思い)」を謡ったオモロがいちばん古く、17世紀初めの尚寧王妃のオモロが新しいいわれている。

一方、仲原善忠によると、オモロの謡われた時代と:主たる内容は:
部落時代(3/4世紀〜12世紀末):神であり、祭祀儀礼が中心である。
按司時代(12世紀〜15世紀):築城、造船、貢租、貿易、按司の賛美、など
王国時代(15世紀〜17世紀):国王の礼賛、建寺、植樹、貢租、造船、公開、属島支配など非農村的主題が多くなった
と三区分している。
オモロが編纂された年代は:
第1巻      1531
第2巻      1613
第3巻〜第22巻 1623
見慣れない語のうち、本書に関連するものを少し上げておく。

テダ    太陽
テダコ   日子
テルシノ  太陽
オシ    (太陽が)照る
テルカハ  太陽
マミヤ   真庭
アマミキヨ 開闢の創世神 (天(あま)みちゅう{御中主、か?})


日前・国懸神宮の名義

上記を発表後、最近のことであるが、和歌山市にある「日前・国懸神宮」の名義について考察したところを別途掲げてあるのでご参照ください。簡単に言うと「前」は「鏡」に通じ、「日前」が「日鏡」、「懸」(かかす)は「輝かす」の意味であり、「国懸」とは「国照」の意味である。すなわち、「布忍」と「国懸」が等価となる。


オシテル難波・考

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