八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)(古事記)は素戔嗚尊(スサノヲ)と櫛名田比賣(クシナダ)の間の子である。日本書紀第1の一書には、1.「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠」、2.「清之繋名坂軽彦八嶋手命」、3.「清之湯山主三名狭漏彦八嶋野」とある。
付番は私が便宜の為に付けた。これらを「適当」に区切って表にしておく。表では便宜の為、2.と3.の順序を入れ替えてある。
古事記 |   |   |   |   | 八島士奴美神 |
日本書紀1 | 清之 | 湯山主 | 三名 | 狭漏彦 | 八嶋篠 |
日本書紀3 | 清之 | 湯山主 | 三名 | 狭漏彦 | 八嶋野 |
日本書紀2 | 清之 | 繋 | 名坂 | 軽彦 | 八嶋手命 |
この名に関しては幾つか興味深いことが指摘出来る。
I.「士奴美」とは?
通常「八島士奴美」は「やしまじぬみ」と読まれるが、「士奴美」を抜き出して単独に読む場合、「じぬみ」のように語頭に濁音が来ることは無いので、これは連濁によるものと考える。即ち、「士奴美」の読みは「しぬみ」であろう。更に、日本書紀の「篠」を参照して「しのみ」と読んでおく。
- 外間守善著『沖縄の言葉と歴史』(中公文庫、p210〜)に:
「その『てたこ』『せのみ』はともに日神を意味する語であるから、セノミがシノミに通ずる蓋然性が考えられる。はたしてセノミは昔を意味するムカシと対語であると同時に、祖先神とかかわりのある遠い昔を意味する語のアマミとも通じていることが・・うかがうことができるのである。・・・つまり日神の意に使われているセノミはシノミの異表記として考えることができるわけである。」 とある。
そこで、この「士奴美」とは琉球で云う「シノミ」であり「日神」のことであろうか、と考えておく。「八島」の「日神」、という如何にもそれらしい意味を見ることが出来る。
- 他の伝承では「士奴美」に対応する部分は「篠」「野」「手」となっている。
「篠(しの)」は「士奴美(しのみ)」の略であろうか、あるいは、琉球で「てるしの」(照る陽)というので「しの」だけでも「太陽」の意味になり、差し支えない。
「野」だけで「日神」の意味と捉えるのは不可能であろう。これこそ、「しの(み)」の訛伝、誤伝、粗略、ということであろうか。
「手」が「日神」の意味になることが出来るか? 上記引用文にもあるように琉球では太陽のことを「てだ」とも云う。「手」だけで「てだ」を読みとるのも難儀ではあるが、関連づけられなくもない。(世に「手」は「年」の誤りであろうとして、それを「ネ」と読み「ノ」に通ずる、という説がある(岩波・日本書紀・p124頭注4)が、どうだろうか。『沖縄古語辞典』に「で:年。生まれた年。干支によって示す。」とある。「で」が「年」であることが意識されていて「ね(ん)」なのに「手」と書いた、ということもあろうか。ロングシュートだ。)
- 「手」の別考:「可美真手」と書いて「ウマシマデ」と云う名の人がいる。(ニギハヤヒの子である。「ウマシマヂ」と呼ばれることが多い。)「ウマシマデ」と「八嶋手」との関連を見てみると「シマデ」が共通している。「八嶋ヂ」も可能な形であろう。
(大国主神(大穴持神)の妻は鳥耳神、その祖は「八島牟遅能神」とある。ここの「遅」も「ヂ」であり、語意として何らかの関連があるように思える。)
- 「士奴美」と似た表記に「速甕多気佐波夜遅奴美神」の「遅奴美」がある。これはどう読んでも「ぢぬみ、ぢのみ」あたりになる。これも連濁による濁音だとすると単独では「ちぬみ、ちのみ」であろう。「し」と「ち」の間には混乱、動揺があって「士奴美」も「遅奴美」も同じ語なのであろうか。混用の例は見つかっていない。
なお「加茂建角身命」というのが「山城国風土記(逸文)」にあるが、ここの「つのみ、つぬみ」の「み」は乙類の「ミ」であり、「美」が甲類の「ミ」であることに反する。参考:尊称コレクション
II. 「狭漏(さる)彦」について
「さる」と聞くと咄嗟に「猿」を想起し「猿田彦」を連想する。関連があるであろうか。
- 「猿田彦」の属性として「天の八衢(やちまた)に居て、上は高天原を光らし、下は葦原の中国を光らす」(古事記)とあり、これは上に見た「士奴美」(しのみ)や「篠」(しの)が「日神」を表す、という措定と整合する。
- 「出雲国風土記」(嶋根郡加賀郷条)より:「佐太大神の生まれたところである。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命「闇き岩屋なるかも」と言って、金弓をもって射たところ、光加加明き(光かがやき)。即ち、ここでも佐太大神(=猿田彦)には「光り輝く」というモチーフが添っている。
- 「狭漏彦」が「猿田彦」のことだとすると「八嶋」というのも「八衢」と符合しているようにも伺える。「八嶋」への8つのルートのセンターハブが「八衢」、という理解になろう。
- 「佐太神社」の主祭神は「佐太大神」で「世に言う猿田彦」(佐太神社御由緒略記)。「出雲国風土記」(嶋根郡加賀神埼条)より:「佐太大神の生まれたところ。(母である)支佐加比賣命(キサカ姫)の言「吾が御子はマスラ神の御子」。「猿」の古語に「マシ」がある。「マシラ」は平安時代から、というも、「マシ」+「ラ」は造作可能(「ラ」語調を調え、また物事を婉曲に示す接尾詞)。「マスラ」を「マシ(ラ)」と解して「猿」につなげる伝承・俗解は十分考えられよう。
- 岩波・日本書紀頭注7p148より抄出:「サは神稲(JKには見出しなし)。ルは助詞「ノ」と同じ、「ノ」は「ナ」にもなる、タは「田」。よって「さるた」=「さなだ」(狭長田、は猿田彦の伊勢の住所)
III.「清之繋名坂軽彦八嶋手命」:日本書紀が二番目に記すこの名について、
岩波・日本書紀p124の頭注4には、
・「繋」を「ユヒ」と読んで、「ユヒナサカ」が「湯山主」にあたる、
・「軽彦」は「狭漏彦」に通じる、
・「手」は「年」の誤記で、八嶋手は八嶋年で、ヤシマネと読み、ヤシマノの音転か、(この最後の「年」説については上に討議した。)
としている。
- ・「繋」を「ユヒ」と読んで、「ユヒナサカ」が「湯山主」にあたる、というのは語順的にはそうかもしれないが、単純な観察結果に過ぎない。全体的にも部分的にも意味が一致していない。
- ・「軽彦」は「狭漏彦」に通じる、というのも解せない。「か」と「さ」が通じる例があるだろうか。
- むしろ「坂軽彦」と区切って「さか
かる彦」で「避かる彦」ならば、一方の「狭漏彦」は「去る彦」と解することで広義ながら同じ意味範疇に入ってこよう。そうではあるものの「遠ざかる彦」というのでは意味合いがそぐわない。少数派、ということで、伝承の途中で意味が忘れられてこのようになったものか、と考えておく。
- 「さかる彦」と見る場合に「繋」は「湯・ひ」と分析して「清之繋名坂軽彦」は「清の湯・ひなさかる・彦」と読み解くことが出来る。「ひなざかる」(都から遠く離れる)「しなざかる」(国名越にかかる。上下遠く離れた、の意か)を抽出することが出来る。[2009/02/24追記]
- 上述したように「八嶋手」と「可美真手」は、「や・しまで」と「うま・しまで」と分解できる造語方法を垣間見られそうである。
なお、日本書紀の伝える三種類の名の前部については上記以外に特に見解は無く、通説に従っておく。
結論
「八島士奴美神」の「士奴美」とは琉球の「セノミ、シノミ」(日神)のことであり、全体で「八嶋(国土)を照らす神」の意味である。また、八方にルートを持ち「上は高天原を光らし、下は葦原の中国を光らす「猿田彦」」に宛てることが出来そうである。
この「士奴美」を「しのみきよ」と関連して(原型・派生?)見るとき、「あまみきよ」は和側で何が対応するのであろうか。「そらみつ大和の国」という「そらみつ」の「そら」も「あま」が原型ではなかったか、即ち「あまみつ」;また、「天満」と書かれるものも菅原道真由縁以外のものがないか、そしてそれは「あまみつ」なのではないか、などを考えて行きたい。
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