オモノキ考 神武紀私註・続き |
神武紀に出てくるオモノキ村に就いて考えております。神武軍と長髓軍とが最初に会戦した孔舎衛での出来事で、下記記述があります。
さて、この場所に就いて、岩波の大系本頭注では、「大阪府枚岡市豊浦町かという」とあります。また、「訛である」という原文に関して、この頭注は「母木邑」を「オモノキ・ムラ」と読んで、後に「邑」を略して『飫悶廼奇』(オモノキ)と読んだ、と理解して、それを「訛」と捉えています。 また、この地は、大阪府八尾市恩智の辺りに比定する考えもあるようです。ニフティでハンドル名、河倭知さんから、土地の年配の方に面白い話しを聞きました、と下記のお話がありました。
さて、さーて、「母木」「母木」「オモノキ」「オモノキ」などと呪文のように唱えておりましたが或朝、「ハハキ」じゃどうなんだ、とフト思い当たりました。 「オモノキムラ」を「オモノキ」と略称したことを「訛」とするのも解せなかったのですが、「ハハキ」が「オモノキ」に変わったのなら、訛、としても良いかも知れません。しかし、まぁ、これだけでは単なる語呂合わせ遊びですが、、、 「ハハキ」と云うと「伯耆」(今ではホウキと読みますが、昔、ハハキと読んだ)を思い出します。今の鳥取県域の旧国名です。これとの関連を探ってみますと、、、 幸い「伯耆風土記」の逸文が残っていて、それも国号に就いて書いてあります。(岩波大系本の頭注では、「古代の風土記の記事とは認められない」と書いてありますが、参考には出来るでしょう。)それによると、
フム、昔の人も「伯耆」と「母来」を関連・連想づけてるんですね。私だけではなさそうです。(^_^) 伯耆、と言えば今の鳥取県(西半)ですが、「鳥取」という語、或いは名は、垂仁天皇紀に出てきます。即ち、垂仁の皇子である誉津別(ホムツワケ)王は喋れなかったのですが鳥を見て喋られるようになった、その鳥を「天湯河板挙」(あまの・ゆかわ・たな)が出雲(或いは但馬)で捉えてきたので、誉めて「鳥取造」に任じ、「鳥取部・鳥養部・誉津部」を定めた、とあります。(なお、古事記の方には同様の説話がありますが、鳥を追っかけて行った先々は、紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越、とあります。) その鳥取部は(その後隆盛して、か)、武蔵、美濃、出雲、備中、河内大県、和泉日根、越中新川、丹後竹野、因幡邑美、備前赤坂、肥後合志、下総印旛、伊勢員弁などに広く分布していたそうです。太字にしておきましたが、河内大県が含まれていることに御留意ください。 さて、アイヌ語です、(^_^)。
そんな背景から、鳥取部の起源が河内恩智・柏原市を含む地域で、オモノキ地名のある地{私説では実は旧名トットニ}だとすると、良く判るような気がします。柏原市、と書いて区域を広げてみたのは、柏原市大県の南、高井田に「天湯川田神社」があり、鳥取部の祖となる「天湯河板挙」ユカリの神社だから、です。 また、上記にアイヌ語 tokkoni =蛇 を掲げましたが、それは、和語古語で「ハハ」は「蛇」をも意味しているので、たいへん興味あるパラレルだと思ったからです。(記紀に登場する「天のハハ矢」とかスサノヲがオロチ退治に使った「天のハハ切りの剣」などの「ハハ」も「蛇」の意味だと考えられています。) 即ち、
「母」と「蛇」が同音・類似音というパラレルがナンなのか、、、 そして、伯耆国号の由来に「蛇」が入ってきている。ナニカありそう。。。ですね。 なお、totto と tokko(ni) は直感としても十分に似ている音ですが、t/kの間に揺れのある実例として、2日を意味するのに、tu-to と tutko(正綴法の規定の仕方によっては、tukko と書いても良くなる)の両語があるのが参考・補強になります。
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