「三」を示す言葉を追いかけてみる。巻35と37で「三」が出てくるのは次の二箇所だ。
高句麗地名
98 |
三嶺縣 |
*三紛縣 |
[105三紛縣(一云密波兮)] |
138 |
三捻郡 |
本悉直國 |
[163悉直郡(一云史直)] |
上の98にて、「嶺」と「紛」は別途対応することが認められるので(例えば参考)残る「三」と「密」が対応しているものと考えるのだ。これが日本語の3「みつ」と似ている、と考えられている。
「密」の中国音は確かに「ミツ」に近いのだが、どうも高句麗で使われる場合には mir という音に使われているらしい。かなり一般的に中国音(日本での音読み)が -t で終わるものは高句麗では -r で終わるようだ。(参考「尸」の読み)
上記のように巻35と37での「三」は二箇所しか出てこないが巻34(新羅地名)にはもう少しある。即ち
新羅地名
S34 | 三年郡 | 本三年山郡 |
S57 | 玄驍縣 | 本推良火縣(一云三良火) |
S132 | 三岐縣 | 本三支縣(一云麻杖) |
- S34では「三年」が「三年」になっているだけで、特段の情報は無い(但し異本に一方が「二年」となっているものがあるらしい。)
- S57からは「三=推」が引き出せる。現代韓国語でも「推す、押す」を mir と云うようなので、この対応には一定の信頼性がある。
- S132からは「三」と「麻」が対応するかに見える。
塚本論文(塚本勲著『高句麗・新羅・百済語の数詞と日本語』(『日本人と日本文化の形成』埴原和郎編・朝倉書店 所収)では先学の説と『鶏林類事』を引いて、「サム、マ、ma, mi」の可能性を提示している。「麻」をSamというのは今でもそうらしいし、『鶏林類事』に「麻曰三」とあるそうで、「麻」の韓訓が「サム」に近い音で、それが漢語の「三」を表している、という考察である。「マ、ma, mi」は「麻」の音に基づいた案であろう。
塚本論文は新たに「三捻郡は本高句麗の悉直國」に着目して「三」と「悉」の対応を提示している。即ち、「悉」の字義(ことごとく、のこらず、すべて、みな)の中期朝鮮語が、即ち訓が mo-do であることに注目して、日本語の「ミ」と modo が対応している、と考えている。また「悉」の音 siet が中期朝鮮語の3 seh に対応していることにも注目して、「三」と「悉」が音でも訓でも対応していると考えている。
塚本論文は更に「彡」の音を「音 im」として日本語 miとの対応も論議しているが、詳細は省略する。
さて、これらは巻34から引き出されたことだ。つまり新羅語を抽出していたことになっていそうだ。つまり、3を mir というのは高句麗語でも然り、新羅語でも然り、ということになる。
これが示唆することとしては次の可能性が考えられる:
- 高句麗語と新羅語は、かなり距離のある方言だとしても同系
- 『三国史記』が述べている時代より前に半島の南部まで高句麗語(扶余語?)が浸透していた(S57の推良火縣(一云三良火)は金思Y 訳の『三国史記』下巻に添付されている地図によると現在の慶尚南道「密陽市」あたりに比定されている。ちなみにここでも「推と密」「火と陽」とが対応している、と言えよう。)
- 高句麗の人々が南下して日本へ渡った経緯があったとして、半島に於ける最後の拠点だった。これと上↑の可能性に関しては『三国志魏志』韓伝の「侯準既僭號稱王、為燕亡人衛満所攻撃、将其左右宮人走入海、居韓地、自號韓王。其後絶滅」が関連していそうだ。(参考:箕子朝鮮)
- 単に外国語で地名をつけてみただけの話
- 偶然にすぎない
結論は今は出せない。
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