今までにも『三国史記』に掲載されている高句麗地名から高句麗語が抽出されたということを読んできたが、(私としては)結論的な断片を見ることが出来たに過ぎなかった。このたび板橋義三著『高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる』(以下、板橋論文、と呼ぶ)(日文研叢書31「日本語系統論の現在」所収)を読み、これまでの先達の研究を集大成して要約した全貌に近いものであろうか(勿論著者の提案、批判も盛りだくさんに入っている)と興味をそそられたので自分でも検証(追試)してみようと思う。
板橋論文を大幅にかいつまむと次のようになろう:
板橋論文の内容を一部引用、紹介しながら、自分なりに『三国史記』の高句麗地名から高句麗語を抽出する過程を辿ってみよう(追試してみよう)。
この研究の方法論は: 例えば、巻35から、新羅地名の「益城郡」はもと高句麗の「母城郡」とあるので、新羅語の「益」と高句麗語の「母」が対応するものとして、高句麗語の「母」は「ヤク」に近い発音だったのであろう、かと考える。 この例の場合には、巻37の高句麗地名の部分に「母城郡(一云也次忽)」という記事があり、そこからは「母」の読みが「也次」つまり「ヤジ、ヤチ」あたりの音であったろう、と抽出する。 このように「母」の読み(音)が「ヤク、ヤジ、ヤチ」周辺であろう、と考えるものだ。さて、これらが何か一つの音に収斂できるか、というとそれは難しい。方言的な発音の揺れ、ぐらいに考えて幅を容認しておくのが良いだろうと思う。 さて、最初っから、雑駁に云ってしまえば、この方法論には幾つかの重大な前提がある。ハッキリ言えば、重大な前提とは重大な危険要素でもある。 ●一つは、上の例でいえば「益城」と「母城」の間に何らかの言語的対応がある(翻訳とか音写されたものである)、という前提がある。景徳王が「改名」したのであって、高句麗語から新羅語へ翻訳されたものとはされていない。「改名」の中には「翻訳」もあろうし、「音写」もあろうが、言語的には関係のない「改名」だってあるだろう。(例えて云えば、東京の「多摩川 はもと六郷川」「多摩川 一云玉川」という記事から「玉」と「六」ないし「六郷」を関連づけてしまう恐れがある。「徳島県はもと阿波國」から「徳=阿」「島=波」を抽出してしまう恐れがある。) ●つぎに「高句麗地名」としているものが「高句麗語」で命名されたものだ、という前提がある。ある土地をある時期に高句麗の人々が占拠していた、その時期のその土地の名前を「高句麗地名」と名づけるのは良しとしよう、しかし、その地名が、高句麗語によって命名されているとは限らない。更に先住民の言語によるものかもしれないし、漢語、新羅語や百済語が混じっていないということをどう担保するのか。(米国のマンハッタンを思えば判ることだろう。)高句麗・新羅・百済などの間の領土争いの歴史との照合、検証も必要になりそうだ。 ●もう一つは、「兎山郡は本高句麗の烏斯含達縣」という記事から、「烏斯含」は「高句麗語」で兎の意味だったので「兎山」と改名した、と理解してきている。しかしそれは良いのだろうか。この音は高句麗語では別の意味であったが、新羅語で「兎」だった、ということがあるかもしれない、という可能性を排除しないままに高句麗語だ、とされているのではないか。
このような危険要素の潜在することを承知しておかねばならない。 一般論として、自分で資料を精査して行くと、時には従来発表されてきたことが、恣意的なデータの取捨選択によるものではないのか、疑問を抱くに至ることがあった。爾来、あらゆることに関して、都合の良いデータだけが見せられているのではないか、という恐れを常に持っている。それで「自分なりに後追いをしてみよう」ということである。 さて、上記のように板橋論文では、111語の高句麗語が掲げられている。僅か111語で何が言えるか?とも思ったり、その僅かな中でも47語、と濃厚に日本語との同源が推定出来る、というのは大変なことだ、とも思ったりする。基礎語彙に範囲を絞ってもで高句麗語語彙の10%近くも日本語と共通するならば、それは大変なことだ。。。実は、同源であるのか否かの判定は、なかなか難しい。 安本美典・本多正久著『日本語の誕生』が論ずる「古極東アジア諸言語」(日本語、朝鮮語、アイヌ語が含まれる)の提案ではわずかに「語頭子音」の一致・不一致を以て同源か否かを判定している。そうせざるを得ないほどこれら言語間の関係が薄い、ということであり、同情するものの釈然としていない。 すなわち、高句麗地名から収集された「高句麗語」と日本語が同源である、とする手法がどのようなものか、も勉強したい興味のあるところだ。(日本語との同源性へのリンク) 高句麗語の研究の勉強TOPへ HPへ戻る |