「高句麗地名」は「高句麗語」か?
数詞の7、他
orig: 2004/06/12
『三国史記』が「○○はもと高句麗の××」と書いている巻35,「○○(一云××)」とリストしている巻37に見られる「高句麗地名」は果たして本当に「高句麗語」なのか?という疑問が拭えない。

高句麗地域の地名から収集された語彙ではあるが、その地名が高句麗語でつけられた、という論拠がないと、復元したものが高句麗語とは言えない。(マンハッタンが英語ではないように。)難しいだろうけど、理屈としてはこうなる。(板橋論文の指摘・立場


ここでは、高句麗語の数詞「7」を調べてみる。これは『三国史記』巻37に「七重県(難隠別ともいう)」とある所から、「難隠」nanun で日本語の「ナナ」に近い、とされ、日本語の高句麗起源が説かれるとき一つの証左とされている。(この解読自体への疑問提起はこちら。

『三国史記』には新羅本紀、高句麗本紀、百済本紀などが含まれており、それぞれの視点から歴代王の記述を中心に編纂されている。これらが「七重」をどのように扱っているか、を見て行こう。

西暦新羅本紀高句麗本紀百済本紀
638高句麗が北辺の七重城を侵した・・新羅の北辺にある七重城(今の積城)を侵攻した。対応記事なし
660/11/1高句麗が七重城を侵め・・対応記事無し対応記事なし
662/1/23七重河を渡り・・対応記事無し対応記事なし
667(文武王答書)まず高句麗の七重城を討って・・対応記事なし対応記事なし
675(唐の)劉仁軌は七重城でわが(新羅)兵を破って・・
9月唐兵は契丹・マッカツの兵とともに七重城を囲んで攻めたが勝てず・・
対応記事なし対応記事なし>
上から読みとることが出来るのは次のようである。
  • 638までは七重城は「新羅の北辺」の領地だった。
  • その後高句麗が支配していたようだ。
  • そして667に新羅が「高句麗の七重城」を取り返した、と読む。
  • 次いで唐に支配された。
  • そして景徳王(742即位〜765没)の時までには再び新羅の配下となって、巻35の「重城県はもと高句麗の七重縣」と記されるに至っている。
これらが記録された時点での認識は「もと高句麗の七重縣」なのであろうが、更に昔は実は新羅の領土だった、のではないのか。(もちろん、更に遡れば、それも新羅が高句麗か他の先住民から攻め取った、という前史があったりするのかも知れないが。)

さて、こうやって経緯を見てみるとこの地名は何語で付けられた地名なのであろうか。綿々たる歴史の中で『三国史記』が「切り取った」期間で見る限り、最初この地は、新羅の領地であった。この地名は新羅語の可能性もある。新羅よりも前に居た先住民の言語かもしれない。あるいはまた、高句麗が支配している期間に、それ以前の地名を廃絶して、高句麗語で「七重」と付けたのかもしれない、(この場合には、それ以前の記事は新地名で書いてある、という理解になる。)その可能性も0とは言えまい。

すくなくとも、「七重」という表記も、それの発音に相当しそうな「難隠別」という音の表記も高句麗語である、と前提することには疑問、不安が残らないのだろうか?


「雉壌城」の例を見てみよう
西暦新羅本紀高句麗本紀百済本紀
369なし南へ百済を征伐し雉壌(刀 、または雉岳城)で戦った高句麗が雉壌に至り・・侵奪した。(百済は)ただちに雉壌に至り高句麗軍を急撃して・・
これを見ると雉壌はもともと百済領地なのではないか。「雉」=「刀」との対応を認めたとしても、それは百済語を拾い出しているのではないのか。それとも「とうろう?」と読んだのはあくまでも高句麗本紀の記事であるし、また巻37でも高句麗地名リストにあるから高句麗語だ、と考えるのか。
水谷城の場合
西暦新羅本紀高句麗本紀百済本紀
375なし7月百済の水谷城を侵攻した。7月高句麗は北辺の水谷城を攻めてきて陥落させた。
502なし11月百済は・・・水谷城を侵した。501年11月として:・・高句麗の水谷城を討たしめた。
こういう経緯のある地名は、巻35には「檀渓県はもと高句麗の水谷城県」とあるものの、高句麗語による命名なのか百済語による名付けなのか、判定は難しい筈だと思う。

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