和都賀野・考

orig: 2010/01/01

「和都賀野」と書かれる地名がある。「伊賀国風土記(逸文)」に見える地名である。これとその周辺について考察したところを述べる。
「伊賀国風土記(逸文)」より抜粋:
(金鈴を守っている)御斎(いつき)の處(ところ)を加志(かし)和都賀野(わつかの)と謂った。今、手柏野(たかしはの)というのは訛りである。云々

和都賀野も手柏野も比定地、遺称地がなく、岩波本頭注(P432)でも「所在地不明」とされている。


考察1:確かにこれらの所在地をピンポイントするのは難しそうであるが、逆に視野を広げてみると京都府相楽郡の「和束」という地名がある。和束と和都賀は同音であり、ワツカという伊賀と山城にまたがる広域地名を想定することができそうである。
考察2:「ワツ」という音は「月」の音読みであろう:出雲国造伝略に「櫛月」=「久志和都」としてあること、と中国側での古音の検証が根拠である。(詳細は:和知・両月の周辺を参照)
 とすると、「わつかの」は「月か野」の意味であったか、その意味を付与することが可能であり、「月ヶ瀬」がそのバリエーション(野→瀬)のようにもうかがえるのである。

月ヶ瀬地区には「桃香野」(今は「ももがの」と呼ぶ)があるが、原点は「とがの(とうがの)」かもしれない。「とがの」地名はかなり広く行われており「大和の とがの」と特定するために「和都賀野」となっているものであろうか。


考察3:「和都賀野」と、その後代の呼称「手柏野」を比較してみる。それには上記逸文にある「加志の和都賀野」を使う:
   カシノワツカノ
  タカシ ハ  ノ
柏の類としては万葉集に「このてかしは」というものが歌われている(兒手柏 16/3836/2  古乃弖加之波 20/4387/2)、すなわち「手柏」とは「兒の手柏」の略称の如くである。

「加志の和都賀野」の原義が忘れられて「カシ・ワツカノ」を「カシハ・ツカノ」と異分析して「手柏野」としたもののようである。


考察4:「御斎(いつき)の處(ところ)を加志(かし)」の部分に注目してみる:すなわち、「御斎(いつき)」と「加志」で「イツカシ」という音が提示されており、「嚴橿」などとも書かれる地名と同語のようである。

『倭姫命世記』に「四十三年丙寅、倭の伊豆加志(いつかし)本宮に遷りたまひ、八年斎き奉る。」とある。

『垂仁紀』に「天皇 倭姫命を以て御杖として天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ。是を以て倭姫命、天照大神を磯城(しき)の嚴橿(いつかし)の本(もと)に鎮め坐(ま)せて祠(いは)ひまつりたまふ。」

『万葉集』第1巻第9首(難訓歌である):
莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本

『古事記』(雄略記)の歌謡に: 御諸の嚴(いつ)白檮(かし)がもと 白檮(かし)がもと ゆゆしきかも 白檮(かし)原童女


考察5:「和都賀野」には直接関係しないものの月ヶ瀬村の北に「尾山」があり、ここに「尾山代(おやみで)遺跡」がある。「山代」の部分を「やみで」とする、つまり「代」を「で(←だぃ)」とするのは「邪馬台」を「山代」と仮定する拙論に照らして興味を惹くところである。
考察6:上記古事記歌謡の「嚴白檮」という用字を参照すると「白」字は必ずしも「シロ」という音を積極的に発音するものではない。とすると例えば上野市の「白樫」も「手柏野」比定地候補となりえよう。
考察7:伊賀国風土記逸文の「加志」はここまで「樫、橿、柏」などとして考えてきたが、出雲国風土記にある「爾佐加志能為社」、肥前国風土記(杵島郡)にある冷水が出るという「カシ(船を止める杭)」から、「カシ」と「井」の関わりが考えられる(参考:爾佐の加志能為社)。となると、京都の「和束」の西隣に「井手」という地名があるのが興味を惹く。
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