前項でワチ地名人名を拾い「和知」「両月」「月」との漢字表記を見た。「曰」と「月」が、ともに中国音で「ワツ、ワチ」に近いことも見た。
また語義としては広辞苑の「鹿垣(ししがき)、鹿堤(ししづつみ)。しがき。」と播磨風土記頭注の「茅の類の丈長い草の名か。」とを上げた。さすれば、重箱読みだが、倭の茅(チ)、なのか、大萱、あたりに相当しそうだと見た。
本項では播磨風土記の記事(下記再掲)を基にもう少し考察を進めてみる。
播磨国神前郡邑曰野(オホワチノ) | 阿遅須伎高日古尼命神 在於新次社 造神宮於此野之時 意保和知苅廻為院(かき) 故名邑曰野 | 曰 を「ワチ」と読むことと、「ワチ」が「院(かき)」に通じていることに注目!
岩波頭注:「茅の類の丈長い草の名か。垣・柵の或種のものをワチというのは材料の草名からの転義の如くである。」即ち、大茅、大萱、大栢、とでも理解しておくか。 |
『時代別国語大辞典上代編』 | 「わち」の項 | 茅の類を外囲いにしたものか。【考】ワチの語は現在の方言に見いだされる。・・・(上の播磨風土記の文に関して)結局は野を開いて作った神社の周囲に、大ワチすなわち大きな生け垣に似たものをめぐらしたものをいうか。 |
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・大萱などで垣根を作った。その内側は農地とか居住区であろう。
それが「国、村、町」の原初ではなかろうか。
すなわち「ワチ」は自分の住んでいる垣内のこと。
「ワチ」が指す地理的な領域は垣内から広がり、主として活動している領域、を
も示すことになろう。
・国造、和気、稲置、縣主、というのがある種のヒエラルキーを伴った「くに」の首長のようだ(下記、景行記など参照)。和気 は ワチ から転じたものと、提起するものである。
・「ワチ」の第二音節が、あまりハッキリしていなかったり(ワチ〜ワツの揺れ)、
とか、実は当時の日本での言語には閉音節があった(曰、月、の中国音参照)と、
仮に考えれば、自分の領地を「ワッ」と呼んだのが「倭」となり「和」となり、
恐らくは、三輪の「輪」もこれに連なるものとなる。
・魏志倭人伝に出てくる「弥馬獲支」が「ミワ・ワチ」に連なる可能性がある。
・播磨風土記の「意保和知苅廻為院」の部分は
意保和知 大萱
苅 刈り
廻 もとほし
為院 垣と為す
ということである。
・ワチ を モトホス(廻らす) のである。
「ワチ」の漢字表記に「曰」を使い、「モトホス」の漢字表記に「本」を使えば
「ワチ・モト」「曰本」までは辿り着ける、が果たして・・・
・「モト」に「下」を使えば「曰下」、これが「日下」となり、元来はこれで
「ワチ・モト」と読むのだが「草(萱)のカ(場所)」だから「くさか」と
洒落るのか??? 参照:別考
メモ:(2005/05/17追記)
・垣(かき)、脇(わき):は ワチ から派生していないか
原琉球語にkh(x)の存在を仮定する服部試論と関連 kha-t_
kh は k と h hw に分岐?
・かきもと:神武記久米歌謡←ワチ・モトホスから?
単に 垣のもと(下)と考えられているが、深層にワチ・モトホスがないか
・ワチ→アチがあるか?(アヂスキタカヒコに見るように):阿智、アチ女、
・3 安寧 しきつひこたまてみ
4 懿徳 おほやまとひこすきとも (おほやまと の初見)
その弟が師木津日子
・和知都美(師木津日子の子) (ワチとsiki:共に萱)
・稲置 は ワチ(萱置?)の稲バージョン?
懿徳の子、當藝志比古は「血沼之別、多遅摩之竹別、葦井之稲置之祖」という並列
・景行記:77王・・国造、亦和気、及稲置、縣主・・・
・別(ワケ←ワチ?)
・垂仁記:那良戸・・・大坂戸・・・木(紀伊)戸これ腋月之吉戸・・
腋:ワチ 月:ワチ ?
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